由来書

応神天皇
猿田彦大神
奇稲田姫命
当社は務古の水門の一部にあたり治承2年(1178)には平清盛が上陸したとの記録(『山槐記』)もあり、古代の要津であった。そのため、来朝する外国人を検問する玄蕃寮の出先機関があり、当社は、その役所内に奉斎された事に始まると伝えられる。延元元年(1336)、足利尊氏が西国敗走の折、当社に奉詣して「今むかふ方は明石の浦ながらまだ晴れやらぬ我が思ひかな」と詠んで、社前の浜より乗船したという。
文政13年(1830)、?井山城守石原清左衛門が社殿を改築し、井戸ノ町若中より狛犬一対が奉納される等、社頭整備が進み、明治26年、拝殿が新築された。その後荒頽したが、大正13年、社殿等大いに修築し、八王子八幡神社に若宮社を始め、村内の小祠を合祀し、「駒林神社」と改称した。
大東亜戦争中被災する事も無かったが、昭和63年、社殿焼亡、翌平成元年に再建するも、平成7年の阪神淡路大震災に被災、同年社殿復旧、同10年社務所を再建した。
毎年1月15日に行われていた左義長は、平安時代の永年2年(988)に始まったと伝えられ、三基の「お山」の内二基が東西に分かれ、網入れの優先権をかけて、倒しあいをして争った。争いは壮絶を極め「駒ヶ林のけんか祭り」ともいわれ壮観を呈した。
毎年1月18日から20日に行われている厄除大祭には、遠近問わず多数の参拝者が参集して賑わいを見せ、当社独特の厄除竹神札・厄除絵馬付破魔矢・厄除火箸を受けに参られる。