教えるという事と話すという事

 話す、とは主体は自分。自分が話す。

 教える、とは主体は相手。相手が理解し身につけねばならない。


 このことを前提に、私の考えを書かせて頂きます。
 神職をしておりますとさまざまな講演会があります。神職としての知識を得る為のものとして企画されるものなのですが、だいたいの場合は正直なところ内容が理解できません。

 主題に上がっているものと、内容が結びつかない。聞き手はその主題に沿った話を聞けると思って話を聞きに来ているのに、それらが話題に上らない。聞いても無駄と思えてきます。

 淡々と話し続ける。思いが伝わりません。主題に沿っていても、本人の伝えたい本質がつかめない、本人が思っていたのと違う部分を大事なことと認識する、下手をすると誤解して受け取られる。大変危険です。

 話題が多岐にわたる。覚えきれません。人間は短時間にそれほど様々な分野を話されても咀嚼できるものではありません。明確に「これから何について話をする」と明言しきちんと結論を出した上で次の話ならいいのですが、曖昧なままいろんな方向へ進めば、どこへ向かっている話なのかとらえきれません。

 でも、これらの場合、間違いなく「話して」はいるのです。
 つまり「講話」はなされているわけです。

 講演会とは行けば身につくものではなく、聞き手が聞く努力をして初めて身につくものです。


 ですが、話す側が話すのではなく教えるつもりで講話をすれば、それだけで講演会は姿を変えます。

 例えば政治家の所信表明演説。自分に票を入れて貰う為、自分のすること、自分の意思を有権者に全力で伝えます。そこに誤解があれば自分は落選する。だから相手に正しく自分を伝えようとします。
 その内容は人それぞれですし、受け取り方や立場などもあって票を入れるかどうかは変わってきますが、その姿勢で演説が出来るかどうかは当落に関わる大きなファクターであると思います。

 講演会もそういった相手に理解して貰おうという気持ちで話をして貰える方にして頂ければ大変貴重な時間になるかと思います。
 そういう方の講演には数回しかあっていませんね。

プロフィール

厄除の宮 駒林神社

Author:厄除の宮 駒林神社
兵庫県神戸市長田区駒ヶ林町3-7-3鎮座
由緒正しい厄除の宮「駒林神社」です。

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