教える事、教わる事

 本日、いつもお世話になっている靴屋さんへ行きまして店長さんとお話をいたしました。
 その話の中で、靴について教えを請いに来る人がいる、という話を聞きました。
 来られるのは別の靴屋の店員さん。靴について話を聞かせてもらえると聞きつけていらっしゃったそうです。
 店長さんは様々な質問に対し丁寧に教えてあげたそうです。
 私は靴のことは専門外ですので、詳しい内容はほとんど理解できませんでしたが靴の選び方や進め方などを教えられたということです。
 
 当然ですが、自分の店の店員ではありません。言ってみればライバルです。けど、同じ道を歩む後輩とも言うべき人が教えを請うて来た。店長さんはその気持ちにうたれたのだと、私は思いました。

 私が一流と信じる人は、みな同じようにされておられます。
 自分を頼って尋ねてきたら、「教えてやりたい」という気持ちが「もったいない」という感情に勝るようです。
 それは知識をひけらかしたり、自慢したりしているのではなく、本当に必死になっている人の力になりたいと思い、それがひいてはその分野の発展に繋がると信じておられるからでは無いでしょうか。

 知識をひけらかさない、というのがミソで、講演や本の執筆などをこういう人たちはほとんどしません。求められていない人に教える必要は無いし、もったいないと思うからだと思います。
 また、講演や出版などをされる場合があるとすれば、それは「どうにか世間にわかってもらおう」と訴える気持ちが本当に強い場合ではないでしょうか。そういう場合の講演などを聞いていても眠たくならないですし、最後までのめり込めます。そして大切なことだからと記憶にとどめておこうとします。
 その訴える気持ち、教えたいという想いを込めて話をされれば、聴く側も真剣に聴きます。
 逆に、真剣に聴く気が無い人には話をしたくなくなるということですね。

 教える側がどうしても教えたいことがあれば、そのために訴えるほどの気持ちで話をする。
 教わる側はどうしても知りたいことがあれば、どうしても聴きたいという気持ちをぶつける。

 双方の気持ちが揃って初めて教えは授け授かる事ができます。
 それが一つの師弟の絆と呼べる物では無いでしょうか。


 ところで、私が一流と信じる人、という人たちは、総じて話すのが大好きです。だから聴けば本当にいろいろと教えてくれます。そして話し好きなので気付けば全然違う話になっていることが多々あります。最終的に聴きたかったことの結論を話すのを忘れて終わってしまうパターンも少なくありません。
 そんなときは話が終わった後に、改めて元の質問をすることをお忘れ無く。


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厄除の宮 駒林神社

Author:厄除の宮 駒林神社
兵庫県神戸市長田区駒ヶ林町3-7-3鎮座
由緒正しい厄除の宮「駒林神社」です。

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